
善良議会 政府要職者を弾劾
1368年にはガスコーニュ諸侯の反乱があり、翌69年からはアキテーヌでイギリス・フランスの戦いが再開された。この頃、黒太子が病気になり、エドワードの4男ジョン・オヴ・ゴーントが指揮をとるようになった。しかしイギリスの負け戦が続き、1374年にはカレー、ボルドーなどを除く占領地を失った。1371年に黒太子、1374年にはジョンがイングランドに戻った。
評議会でジョンは戦争に熱意のない政府要職にある聖職者を非難したが、ジョンに対する批判もあった。
1375年の議会でコモンズは提案された課税案に反対し、76年の議会でも課税案に反対するとともに、当局者の処罰、腐敗行為の摘発・弾劾を要求した。王の愛妾アリス・ペラーズやランカスタ公ジョン・オヴ・ゴーントへの公然とした批判があり、教皇のイングランド教会への財政的搾取も非難された。
評議会でジョンは戦争に熱意のない政府要職にある聖職者を非難したが、ジョンに対する批判もあった。
1375年の議会でコモンズは提案された課税案に反対し、76年の議会でも課税案に反対するとともに、当局者の処罰、腐敗行為の摘発・弾劾を要求した。王の愛妾アリス・ペラーズやランカスタ公ジョン・オヴ・ゴーントへの公然とした批判があり、教皇のイングランド教会への財政的搾取も非難された。
交渉の結果、アリス・ペラーズの追放、評議会への国王を補佐する権限の授与、侍従長ラティマなど3名の廷臣と4名のロンドン市民の告発、ラティマと宮内府長官の弾劾などが決められ、それと引き換えに3年分の関税が承認された。
議会が政府要職者を弾劾できたことで、この議会は善良議会と呼ばれる。(貴族院と庶民院の区別は1341年ころに始まった)
コモンズの主導によっていたが、弾劾手続きには貴族院の同意が必要だった。庶民院議長ピータ・ド・ラ・メアがウェールズ辺境伯家のスチュワード(家宰)で、両院に人脈を持っていたことによるものらしい。 ジョンはこの議会決議を取り消させようとしたが、1377年の議会で批判された。
1370年代
世界各国史11 イギリス史
議会が政府要職者を弾劾できたことで、この議会は善良議会と呼ばれる。(貴族院と庶民院の区別は1341年ころに始まった)
コモンズの主導によっていたが、弾劾手続きには貴族院の同意が必要だった。庶民院議長ピータ・ド・ラ・メアがウェールズ辺境伯家のスチュワード(家宰)で、両院に人脈を持っていたことによるものらしい。 ジョンはこの議会決議を取り消させようとしたが、1377年の議会で批判された。
1370年代
世界各国史11 イギリス史